2002年にタイに来たのでもうだいぶ経ちます。

 

到着早々、高層コンドミニアムがタイの寺院が同じ車窓から見えることに驚きましたが、当時屋台での食事が一回25〜30バーツなのに、伊勢丹でアイスが1スクープ50バーツ、スタバのコーヒーが一杯100バーツ、新卒の給料が10,000〜15,000バーツなのに人々は数千バーツの携帯を使い、月給以上のローンを組んで車やコンドミニアムを買う...

 

なんか物価のバランスとタイでの経済観念が日本や欧米と違いすぎて、お金の価値観がわからなくなりました。

 

タイ生活を日本人の最低賃金以下でスタート

私はしがない現地採用大学講師で(というかタイで大学教員をやってる外人は現地採用なのですが)、もともと途上国で教える仕事をしたいと思っていて、その夢が叶って来タイしたわけですが、着任時の月給は25,000バーツ

 

欧州での留学が終わる頃に見つけた教員募集の案内には「月給は約600ユーロ。ただし、タイの生活水準を考慮するとこの価値は1,800ユーロほど」とあって、住居がただとあったので(実際には家賃補助が10,000バーツ加算された)、贅沢はできなくても生活には困らないかなと思ったわけです。

 

で、大学周辺で見つけてもらった5,000バーツのアパートと屋台飯で1年生活してみて、なんとかやっていけそうだと思い、当時日本で非常勤の教員をしていた現在の妻を呼び寄せ、2週間ほどの滞在でこの国を気に入ってくれて、日本での仕事を辞めてタイに来てくれることになりました。

 

バカ正直に、月給3ヶ月分の指輪を用意していました。

 

豪雨の中バスでドンムアン空港に迎えに行き、本当はチャーン島に行きたかったのが、突然大学で会議を入れられて旅程を短くしないといけなくなり、行先をパタヤに変更。1泊600バーツの安宿に泊まって、気の利いた場所が見つからないまま、ビーチロードのスタバでコーヒー一杯を分け合いながら、指輪を渡してプロポーズ。あーロマンのかけらもない...

 

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給料は安くても地位は高い

しかしその後、大学から矢継ぎ早に、Domestic Recruitmentという、タイ各地で学生募集をかける担当や、InternationalRelations という、海外の大学との関係を構築したり交流プログラムを組んだりする担当に任命され、タイ各地や近隣諸国に飛び、一流ホテルに宿泊。

 

また、当時スマトラ沖地震で津波の甚大な被害を受けたクラビ、パンガー、プーケットで、観光客を呼び戻すためにバンコクから往復航空券つき2泊3日の宿泊が一人5,000バーツといった激安プロモーションをやっており、新婚旅行代わりに高級ホテルをはしごしたりもしました。

 

最近は相次ぐ不祥事で信用も失墜してきているとはいえ、タイの大学の先生は、ブッダ、王様、僧侶に次いで4番目に地位が高く、アジャーンと呼ばれ人々の尊敬を集める存在です。

 

周辺から敬われているという優越感も手伝い、25,000バーツの月給に不釣り合いな待遇に多少の違和感を覚えながらも、安月給でも自分でお金を使うことがなければ問題ないな、とタカをくくっていました。

 

考えてみれば、大学から支給・用意される航空券・ホテルを利用しているだけのことで、自分が出したお金ではありませんし、妻との旅行だって、あんな未曽有の自然災害が起きたから格安でいいところに泊まれただけであって、自分の安月給では一泊数百バーツが関の山だったのですが、すっかり気分はエグゼクティブだったんです。

 

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長男の誕生とともにどん底の生活へ

入籍してしばらく経ち、妻のお腹の中に小さな生命が宿りました。安定期に入って一時帰国するときも貯まった自分のマイルを使ってビジネスクラスにアップグレードしてあげて独りごちていました(ですが、妻も慣れないビジネスクラスでかえって落ち着かなく、リラックスできなかったと言っていました...)。

 

タイの私立病院には分娩と2泊3日か3泊4日の入院費用がセットになった出産パッケージがあるのですが、「海外の病院だと出産のあとすぐ退院だね。なんだったらもう数泊すればいいよ」なんて余裕をかましていました。この後、数泊どころじゃなくなるなんてつゆとも知らず。

 

出産予定日の2ヶ月ほど前の早朝、妻がものすごい腹痛で唸り声を上げて動けなくなってしまい、あやふやなタイ語でかかりつけの病院に電話して救急車に来てもらい、妊娠中毒症と診断され、母体が危険だと翌日に緊急帝王切開。

 

病院に運びこんだときに「治療費を必ず支払います」という念書にサインさせられ、母子ともになんとか最悪の事態は避けられたものの、妻は術前術後に集中治療室、息子は未熟児で心肺機能が整っておらず保育器での観察が続き、入院治療費は1日5,000バーツ

 

妻が退院後、数日毎に母乳を凍らせて病院に持って行くときも、産後の妻の体調を考慮してタクシーで行きつつも、メーター が2バーツ上がるたびに胃の底がズン、ズンと重くなり、「今度からはバスで安く行かない?」という言葉が出そうになるのを、妻の手を握ったのとは逆の手で口を押さえ、かろうじて止めているような状態でした。

 

息子が生まれて2週間後、切羽詰まった私は、主治医に経済的な事情を話し、国立のシリラート病院への転院を願い出ましたが、ベッドの空きがないと断られ、途方にくれました。

 

幸いなことに、そんな窮状を名前が決まったばかりの息子が察してくれたのか、自発呼吸が安定して退院の許可が下り、初めて我が家に迎え入れ親子3人で過ごすことができるようになりました。

 

しかし、お金がないと精神的な余裕もなくなるということが、この時期に身をもってよくわかりました。ましてや、それが両親、兄弟、親戚のいない海外でですから、その恐怖はとても言い表すことができません。

 

生活費が1ヶ月分しかなかったので、節約のため、地方出身の学生がくれた、親せきが作っているという布おむつを使わせてもらったり、哺乳瓶の消毒器を買うことができず、深夜に鍋で煮沸消毒しながら、これからいったいどうなるのか、不安で不安で胸がギューッと締め付けられる毎日でした。

 

お金はなんとかならない

不安に苛まれているだけでは何も起こらない。とにかくできることをしよう。働いて稼ごう。

 

その後は取れる仕事は全部取り、家庭教師のバイトをしたり他大学に客員として呼んでもらったりして、大学の給料とは別に月に2万バーツを稼ぎました。息子の1才の誕生日を前に一時帰国したときには派遣のバイトをして、2人分の航空券代と日本での滞在費に充てました。

 

幸いなことに、妻は日本で住民票を入れてあったため、タイの病院の診断書と領収書を翻訳する必要はありましたが、健康保険の海外療養費制度を利用して60万円ほどが補償されたことと、勤務先大学で給与体系が見直され、給与の大幅な増額があり、さらに妻もしたい仕事に就くことができたことで、数年で生活は持ち直し、子供が小学校に上がる頃までにはかなり安定させることができました。

 

ここまで経験してきて痛感したことは、お金に無頓着ではいけない、どうにかなるだろうという根拠のない考えではいけない、ということです。

 

兄弟がいるので早く自立したかったこともあり、日本での大学時代は新聞奨学生をやって、卒業後バイトで貯めた資金で留学も果たし、親の援助に頼らずやってきましたが、お金に関しては、貯金はほとんどできなかったものの今までなんとかやりくりしてきたし、これからも好きなことに一生懸命打ち込んでいれば大丈夫だろうと安易に考えていました。

 

しかし、給料日に散財するタイ人に影響されて買い物をしそうになったり、何才の平均資産はいくらとか言う話に敏感になったりしたのは結局、何をするのにいくらあったらいいのかしっかりわかっておらず、お金をどう使ったら幸せになれるのか、真剣に考えてこなかったからだと思います。

 

約12年前、私の妻子の命は、病院の医師というよりは私の支払い能力にかかっていたわけですが、タイでこのようにあからさまにお金の威力を見せつけられたことで、少しずつお金のことを考えるようになりました。これからも周囲の声に惑わされることなく、自分と家族にとって適切なお金とのかかわり方を考えていくつもりです。

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